木のバットと、ちゃんと向き合う仕事。
事業内容について教えてください。
中塚さん:うちは木製バットの製造と販売をしてる会社で、自社ブランド「soスポーツ」のオーダーバットと、OEMで他社さんのバットも作ってます。
先代の時はある大手さんの専属でやってたんですけど、その会社さんが10年以上前に海外に製造拠点を移したことで、うちの仕事も一気になくなってしまって…。
そこが大きなきっかけになって、自社ブランドを立ち上げることになったんです。
当時は年間10万本くらい作ってたらしいんですけど、もうそのやり方じゃ難しい時代になってて。
少子化や野球人口の減少もあるし、大量に作ってお店に並べて、勝手に売れていくっていう時代じゃないなと。
でも、うちは昔から「手削りのバット」を作ってたんですよ。
それが今では逆に武器になっていて。
機械じゃなくて人の手で削って仕上げるぶん、小回りもきくし、細かいオーダーにも対応できる。
だから今は、そういう一点一点にちゃんと向き合ったバット作りに力を入れてます。
やっぱり野球選手にとって道具って特別ですし、愛着のある1本を持ってもらいたい。
個人のお客さんからオーダーをもらって、好きな色、好きな重さ、形、バランスまで全部カスタムできる。
“世界に一本しかない、自分だけのバット”が作れるっていうのが、うちのスタイルです。
価格も工場直売なんで、できるだけ抑えてます。
普通に売ってる出来合いのものより、下手したら安いくらいかもしれません。素材もいろんな種類があるんで、打感が硬いのが好きな人とか、しなりを重視する人とか、それぞれに合わせて選んでもらえます。
そんな感じで、今は自社ブランドと他社製造の両方のバランスを見ながらやってるっていうのが、今のsoスポーツのかたちですね。
理想と現実の間で、揺れる想い。
仕事への想いについて教えてください
中塚さん:この仕事を始めたばかりの時は、職人って黙々とモノだけ作ってればいいんやと思ってました。
でも、あるお客さんとのやりとりがきっかけで、それがガラッと変わった。
まだこの会社にきて間もない時、手削りの注文を受けてから「僕はまだ削れないので別の者が担当します」って伝えたら、そのお客さんが帰る間際にまた僕のところに来て「中塚くんに削ってほしい」って言ってくださったんです。
「寸法なんて多少ずれてもいい。形もどうでもいい。ただ、自分の気持ちをわかってくれてる人に、作ってほしい」って。
そして、ハッとしました。
「技術だけやない、人との信頼があるからこそ、意味がある」って。
そう言われた時の事は今でも鮮明に覚えていますね。
もちろんネット注文も大事にしてるし、心を込めて作ってます。
でも、やっぱり直接顔を合わせて、話をして、生まれるバットっていうのは、自分にとっても特別です。
お客さんの顔が浮かぶし「こんなこと言ってたな」とか思い出しながら削るんです。
「一点モノ」っていうのは、なにも形だけやないと思うんです。
その人と話して、その人のために作ったバット。
そこに気持ちがこもることで、他の何にも代えがたい“特別な一本”になる。
それこそが、うちが届けたい「バット」やと思ってます。
あとは最近、野球をするにもお金がかかる時代になってきてて、道具もどんどん高くなってる。
自分らとしては、ちゃんとしたものを、できるだけ手の届く価格で届けたいっていう思いはずっとあって。
特に学生さんや若い世代の子たちには、そういう環境を作ってあげたいなっていうのがあるんです。
でも最近になってくると「安い」ってだけで「安かろう悪かろう」みたいなイメージを持たれることもあって。
「じゃあ、値段上げたらいいやん」って思うかもしれないですけど、そう単純でもなくて、価格を上げるなら、それに見合ったサービスや付加価値も一緒に高めていかんといけない。
ただ、そこをやりすぎると、結局最初に届けたかった層からは遠ざかってしまうっていう。
「じゃあ、自社ブランドとしてプロ選手に使ってもらえば?」って話になるんですけど、それには“無償提供”っていう条件がほとんどなんです。
そうなると、そのコストをどこで補填するかって言ったら、やっぱり一般のお客さんからってことになる。
それは本末転倒だなって、自分の中では引っかかるところがあって。
自分たちは「一流選手のためだけの道具屋」じゃなくて「誰でも手の届く範囲で、自分に合ったバットを手にできる」っていう世界を作りたかったはずやし、そこを忘れたくないなと。
最近は、いっそブランドを2つに分けるのもアリかなっていうのは、ちょっと考えてます。
今のsoスポーツはそのまま続けて、もう一つは高価格帯・プロ向けっていう、ちゃんと分けることで、両方の価値を守れるんじゃないかって。
まだ具体的には動いてないですけど、頭の片隅にはある構想ですね。
鉄道マンからバット職人へ。しつこさと愛着で手にした場所
どういった経緯で今の仕事をはじめたのでしょうか?
中塚さん:前までは、とある鉄道会社で駅員や車掌の仕事をしていました。
待遇も安定もしていたし、周囲には優秀な人たちもたくさんいて、いわゆる「ちゃんとした会社」ではあったんですけど…。
組織が大きすぎると、自分がどれだけ頑張っても、会社の流れには何の影響も与えられない。
そういう無力感というか、「このままでいいんか?」って気持ちがずっとあったんですよね。
そういう違和感の中で、ふと思い出したのが高校時代に憧れていた「花火師」のこと。
結局は先生に「ふざけるな」って言われて諦めた夢だったんですけど
「本当は、何かをつくる仕事がしたかったんだよな」って思ったんです。
そんなとき、たまたまテレビで見たのが、バットを削る映像でした。
木くずがシュルシュルーっと気持ちよさそうに飛んで「これ、めっちゃ面白そうやん」って一瞬で惹かれて。
実は高校時代にも、グラウンドに落ちてた木を拾って、自分でバットの形に削って遊んでたことがあって(笑)
やっぱり「グローブよりバットやな」って思ったんですよ。
で、色々調べてみたら、バット職人って国内にほんのわずかしかおらんって知って、
「ちゃんと技術を身につければ、自分でも勝負できるかもしれん」って思ったんです。
たくさん職人がいる業界より、少数精鋭の世界の方が勝負できるかもしれない。そんな風に考えてました。
当初は地元でバット作りの会社を探してたんですけど、地元(姫路)のバット製造会社の社長さんに言われたんですよ。
「本気でバットやるなら、富山に行かなあかん」って。
当時はまだネットも今みたいに整ってなくて、ホームページもあんまりないし、会社の情報もブログとか口コミ程度。
それでもとにかく調べまくって。
でも、行ってみんと分からんと思って、春先の3月ごろですね、人生で初めて富山に来ました。
電話で「働かせてください」って言っても門前払いされるかもしれんと思って、アポも取らずに来て、インター降りて目についた工場を順番に回りました。
けど、どこもなかなか見学させてくれない。
そんな中で、唯一「見学ええよ」って言ってくれたのが、今のこの会社だったんです。
当時は従業員も地元の職人さん3人だけでしたね。
でも、僕の話を丁寧に聞いてくれて、工場の中も全部案内してくれて「せっかく来たんやし、削ってるとこ見ていき」って言ってくれたんです。
あのときの空気とか雰囲気が、なんかすごく印象に残ってて。
それで「ここで働きたいんです」って伝えたんですけど、当時は大手メーカーの仕事がなくなったばかりの時で
「今は人雇う余裕がない」って、きっぱり断られました。
でも、どうしても諦めきれなくて。
連絡先だけ置いて帰って、それから毎月手紙書いたり電話したりして、半年ぐらい粘りました。
それが報われたのが、ちょうど12月のクリスマスぐらいの時でした。
「そこまで言うんやったら、一回やってみ」って言ってもらえて、年明けから半年だけ、試しで働かせてもらえることになりました。
ただし「合わんかったら帰っていいし、逆に使えん思ったら切るから」っていう条件つきで。
まだ当時は仕事も少なくて、削らせてもらえる機会もなかったから、日中は塗装の手伝いや下仕事をして、夜や休みの日に工場にこもって、自分で削る練習をしてました。
友達もおらんし、遊ぶ場所もない。だから、とにかく工場にいて、削ってた。
手は水ぶくれだらけで、火傷もして、でも、それが全然苦じゃなかった。
むしろあの時「楽しい」って思えてましたね。
日本一のバットの街で生きていく覚悟
それからどうして代表就任することになったのですか?
中塚さん:実はちょうど10年目に差し掛かるころ、会社では跡継ぎがいなくて。
「やってくれ」「継いでくれ」なんて一言も言われてないんですけど、会議に呼ばれるようになって、取引先の会合にも顔を出すようになって。
「これは…もしかして?」って感じる場面が、じわじわと増えていきました。
明言されへんけど、空気で伝わるというか。「わかるやろ?」っていう、無言のバトンリレーみたいな感覚でした。
ただ、富山に来たときはここで骨をうずめるなんて、全然考えてなかったです。
奥さんも僕も地元は姫路で、高校の同級生。僕が野球部で、彼女がマネージャー。
野球が好きで、この仕事にも理解があったから「富山でちょっとやってみたい」と話したときも、快く応援してくれました。
最初の1年で「これならいけそうやな」と思って、結婚して、富山で一緒に暮らし始めたんですよ。
「ここで10年修行して技術を身につけて、それから地元に戻る」
そう思ってたんですけど、その10年の間に子どもが生まれて、育って、友達もできて、生活の拠点が自然と富山になっていったんですよね。
気付いたら自然と「ここでやろう」って、腹が決まっていきましたね。
もちろん、地元に帰ってゼロから始める選択肢もありました。
でも、この設備があって、この環境があって。
そして「日本一のバットの町」っていう看板がある。
それって、どんなに覚悟を決めても、自分一人では持ちえない価値なんですよね。
やっぱり、姫路に戻って「富山で修行してきました」より「富山でやってます」の方が、圧倒的に説得力があるんですよね。
しかも、子どもにとっての故郷は“富山”なんです。
親の都合で連れ戻すわけにはいかないし、気づけば僕の「帰る場所」もこっちになってました。
今思うと、あのときの「半年だけ試しに入っていいよ」って、この会社がくれたチャンスがすべての始まりでした。
それから10年かけて技術と信頼を積み重ねて。
バット職人を目指したあのときに見上げた工場の看板を、今は引き継ぐ側になっていたんです。
富山でつくる意味、富山だから伝えられること
富山についての想いを教えてください。
中塚さん:富山って、ほんまにいろんな“素材”がある町やなと思うんです。
自然の豊かさもそうやし、山にしても、海にしても、他の県にはないような景色がいっぱいある。
それだけやなくて、産業も面白い。
彫刻やったり、ガラスやったり、金属やったり…高岡や魚津や、エリアごとにぜんぜん違う文化が根付いとって、そこもすごいなって。
正直、僕も富山に来る前は、こんなに魅力の詰まった場所やとは思ってなかったんです。
せやけど、暮らして、働いて、だんだんと見えてきた。
まだまだ知られてへんだけで、ええもんが多くあるなと。
うちの仕事もまさにそうで「日本一の木製バットの町」って言われるほどの産地やのに、実際どれだけの人がその事実を知ってるかっていうと…正直まだまだです。
「桃鉄」で富山に止まったらバット工場が買えるから、それで知ったってお客さんもいるぐらいで(笑)
でもそれくらい、業界内では知る人ぞ知る土地ではあるんです。
どうしてあんまり知られてないかって言うたら、これまでのバット産業は基本的に大手メーカーさんの下請けが中心で、個人相手の仕事をほとんどしてこなかったから。
でも、うちは自社ブランドを立ち上げて「個人のお客さんとちゃんと向き合っていく」ってことに踏み出しました。
だからこそ、PRもしようと決めて、SNSも自分の判断で勝手に始めました(笑)
結果的に、それが広がって「富山にこんなバット工場があるんや」って、全国からわざわざ来てくれるお客さんも増えてきましたね。
そしてそれを、富山という土地でやっていることにも、ちゃんと意味がある。
ものづくりの町としての看板もあって、全国から人が来てくれる。
ここでやるからこそ、届くものがある。
僕はそう信じてます。
もっと楽しく、もっと開かれた場所へ
今後の展望について教えてください。
中塚さん:ありがたいことに、ここ最近は全国からたくさんの方が工場に来てくれるようになりました。
観光バスで団体さんが来てくれたり、個人でバットのオーダーに来てくれたり。
本当に感謝しかないです。
だからこそ、せっかく来てもらった人に「楽しかったな」「来てよかったな」と思って帰ってもらえるような環境を、少しずつでも整えていきたいなと思ってます。
今までは工場って、どっちかというと「汚くてもしゃあない」っていう場所やったんですけど(笑)
せっかく人が来てくれるようになったなら、もうちょっと居心地のいい、開かれた場所にしていきたいなと。
例えば、ただ見学して終わりじゃなくて、なにかもう一歩、楽しい体験ができるような工夫。
そのためにはもちろん人手も必要やし、接客できるスタッフの育成も課題になります。
今のスタッフは、どちらかといえば“ものづくり一本”の人が多いんですよね。
人と関わるのが得意じゃない人もおるし、ただ、それが悪いわけじゃない。
でも、これからはオープンな場としてやっていく以上、接客を担える人材も育てていかんとなって思ってます。
そして、個人的にずっと実現したいと思ってるのが「その場で削って、その場で仕上げる本当のフルオーダー体験」です。
今はどうしても「注文を受けて、後日仕上げて発送」という流れになってしまってます。
でも、手削りの一番の魅力って、その場でお客さんと一緒に感覚をすり合わせながら、微調整して仕上げていくところにあると思うんです。
「あと0.2ミリだけ細く」「もうちょっとだけグリップ太めに」とか、そういうリクエストにリアルタイムで応えられるような、まさに“二人三脚で作る一本”。
もちろん、それをやろうと思うと1人のお客さんに半日くらい時間を割かんといけないし、他の仕事との兼ね合いもある。
でも「追加料金払ってでもそれをやってほしい」という声は、実際に何件もいただいてて、需要は確実にあるんです。
そういう意味でも、単価の見直し含めて、soスポーツだからできる“唯一無二”の体験をしっかり形にしていきたいと思ってます。
「バットを作ってる工場」っていう堅いイメージじゃなくて、
“なんか面白そうなことやってる場所”くらいの、軽やかで開かれた雰囲気を目指していきたい。
最終的には、バットを「削る場所」じゃなくて「出会いが生まれる場所」にしたい。
そんな風に思ってます。
焦るな若者、回れ右してもええから、まずはじっくり生きてみ
最後に、若者へのメッセージをお願いします。
中塚さん:最近よく思うんですけど、みんなちょっと急ぎすぎやなって。
面接に来る子たちも、だいたい最初に言うのが「1年で独立したいです」とか「2年だけ教えてください」とか。
この前は「1ヶ月だけでいいんで教えてください」って子もいて、正直びっくりしました。
独立したいっていう気持ちは分かるんですよ。
僕もそういう思いがあったから。
でもね、1年や2年じゃ、仕事のことなんて全然分からんよって思うんです。
職人の世界は特に、時間かけて技術も知識も、人とのつながりも、全部じわじわと積み重ねていくもんやから。
最近はブランドを立ち上げたいっていうOEMの依頼も多くて、毎月のように「自分のブランド作りたい」って電話がかかってくるんですよ。
「YouTubeやるからいけます」「Instagramでめっちゃ売れます」「年間2,000本捌けます」ってよく言われる。
でも、本当にそうなのかなって。SNSや動画で成功してる人に見えても、実は裏で死ぬほど努力してる。
そこを見ずに「楽に稼げそう」って思うと、きっと続かないと思うんですよね。
それに、人脈を大切にしてください。
「この人と関わっても自分にメリットない」とか「業種が違うから関係ない」とか。
でも、実際に仕事って、ほんまに巡り巡ってくるもんで、7年前にちょっと話しただけの人から、ある日すごい大きな仕事の話がきたりする。
そういうのって、まじめに一つひとつ丁寧に関わってきたからこそやと思うんです。
お金も大事やけど、それ以上に大事なことっていっぱいある。
目先の利益にばっかりとらわれずに、長い目で、どっしり構えて生きてほしいなって思います。
SNSで見える「キラキラした成功」だけを追いかけんといてほしい。
その裏には、地道で泥臭い努力があって、積み重ねがあって、やっと形になっとるんやから。
だから、焦らんでいい。
寄り道しても、回り道しても、自分の足でちゃんと歩いて行ったら、ちゃんと自分の道になるから。
まずはちゃんと向き合って、じっくりやってみてほしいですね。
ライター:長谷川 泰我